彼には翼が生えている。
その“可能性”という名の力強い翼を封じ込める事はおそらく誰にもできないだろう。
どこまでも遠く、高く、飛び立っていこうとする彼に自分は今、何ができるのだろうか・・・
食事もそこそこに部屋へと入った不二は、まるで糸が切れたかのようにベッドへと倒れこむとその目を閉じた。
瞼の裏には先ほど見た光景が鮮やかに浮かび上がってくる。
それは輝きに満ちた、美しく力強いプレイ。およそテニスをするものなら引きつけられずにはいられない・・・彼のテニス。
最後まで胸躍らせて見守ったその試合を思い出し、不二はその唇に笑みを刻む。
実に生き生きと、楽しそうにプレイする彼は本当に眩しくて、瞬きする間も惜しいくらいだった。
・・・そう、何時までも見ていたかった。ずっと・・・
・・・気付くと笑みを浮かべた唇をぎゅっと噛み締めている自分に気付き不二は苦笑した。
“わかっていたことだ。それが予想よりも早く来ただけ。”
そう自分の胸に言い聞かせ、不二は小さくため息をついた。
だから・・・動揺してはいけない・・・
と・・・
静まり返っていた部屋に不意に鳴り響いた携帯の着信音に不二はびくり、身体を震わせ、その目を開けた。
鳴っているのは・・・彼のために選んだ曲。
少しの躊躇の後、バッグから鳴り続ける携帯を取り上げた不二は、ひとつ息をついてから通話ボタンを押した。
「もしもし。」
“・・・先輩?”
電話越しの声はいつもより緊張しているように聞こえ、不二は小さく笑う。
「今日はお疲れさま。」
“・・・っす。”
「いい試合だったよ、桃との試合。」
“・・・ありがとうございます。”
「とても・・・カッコよかったよ。」
そう言って不二はくすり、と笑うと大きく息を吸い込んで吐き出した。
「ま、大舞台に立つには、まだまだだけど・・・ね。」
“・・・え?”
「・・・行くんでしょ?アメリカ??」
・・・切り出される前に切り出したかった。どんな形にせよ彼から“別れの言葉”を聞きたくはなかったから。
“お見通し・・・ってわけ?”
「そりゃあわかるよ。君のことだもの。」
少し驚いたようなリョーマに不二はちょっと笑う。
「君らしい選択だと思うよ・・・っていうか、選ばないはずないと思ってた。」
“・・・え?”
「だって君は越前リョーマだもん。」
おどけたようにいったはずの言葉がかすれ、不二は慌てて軽く息を飲み込む。
大きな翼を持った美しい鳥。望むものは・・・遥かに高い大空。
どんどん高く、どんどん遠く。
「君なら行けるよ。・・・どこでも、どこまでも・・・だから・・・」
どんな形にせよ、君からは聞きたくない言葉。だったら自分が告げよう。
彼がまだ自分を思ってくれているうちに。重荷と、枷と、そう思われないうちに。
自分は誰よりも彼が・・・越前リョーマが好きだから。
不二は大きく息をつくと、意を決してその口を開いた。
「越前、僕達・・・」
“先輩。”
・・・と、不意に強い調子でその言葉を遮られた。
“窓の外、見てよ。”
「え・・・?」
その言葉に立ち上がり、窓際に歩み寄って外を眺めた不二は大きくその目を見開く。
「越・・・前?」
門前からこちらを見上げているのは、携帯を手にした後輩の姿。
慌てて窓を開ければ、彼がゆっくりと窓の下まで歩み寄ってくる。
「待ってて。今そっちに・・・」
「オレが行くからいい。」
「え?」
自分の部屋は二階。地上からはだいぶ距離がある。
「行くって・・・ちょっと!」
傍らの木に取り付き、するするとそれを登り始めたリョーマに、慌てた声を上げる不二。
でもそんな不二の声に耳も貸さず、あっという間にそれを登り切ったリョーマは、不二の部屋の窓わくに手をかけ、そのまま勢いをつけて部屋へと滑り込んだ。
「何だ、案外簡単だね。」
出窓に腰を下ろして、靴を脱ぎながらリョーマはちょっと笑う。
「これならいつでもあんたをさらいに来られるね?」
「越前・・・」
冗談とも本気ともつかない口調でそう言うリョーマを見る不二の瞳が揺れる。
「・・・ねぇ、先輩?」
と、その口調を改め、リョーマがその顔を上げた。
「さっき、何を言いかけたの??」
「え?」
「電話であんた何か言いかけてたでしょ?」
「・・・あ・・・」
「それ、今、オレの前で、オレを見て言ってくれない?」
「・・・越前・・・」
その顔から笑みを消し、いつにないきつい口調でそう問いかけてきた彼に、不二は言葉に詰まった。
「・・・言えないの?」
詰め寄るリョーマのまっすぐな強い視線に、先ほどまでの決心がぐらつくのを感じ、不二は思わず俯く。
そんな彼に歩み寄ると、リョーマはいきなりその身体をきつく抱き締めた。
「!」
そのまま強く首裏を引かれ、唇を奪われる。
噛み付くように乱暴に、まるで苛立ちをぶつけるかのように激しく深く唇を求めてくる彼に不二はただ戸惑い、うろたえる。
「・・・オレ、絶対イヤだからね。」
・・・お互いの息が上がり出した頃、ようやくその唇を離したリョーマは低く呟きながら不二を見あげた。
「あんたと別れる、なんて事。」
「!」
自分の言葉を見透かされていた驚きに目を見開く不二を見て、やっぱり、とリョーマはその目を細める。
「いかにもあんたが考えそうな事だよね?・・・でも・・・」
いったん言葉を切り、視線を伏せると、リョーマは小さくため息をつく。
「あんたが、オレがあんた自身や部の仲間達よりオレの夢を優先したって思ってて、で、オレに愛想つかした、って言うんなら話は別だけど。」
「越前・・・」
「・・・確かにオレ、こんな大事な時にあんたの傍にいない。わがままで、どうしようもなくガキで・・・だけど・・・」
とん、とその額を不二の胸に押し付け、まるで子供のようにぎゅっと彼の胸元を掴むリョーマ。
「やっぱりオレは・・・あんたを離したくない。」
「・・・越前・・・」
「どんな事があっても、最後にはあんたのところへ帰ってきたい・・・だから・・・」
待ってて・・・自分の胸元をつかむ力とは裏腹に、小さく囁くようにそう言った彼の声はかすかに震えていて、不二はその目を見開く。
いつだって自信に満ち溢れた目で周りを見据え、常に前を向いている彼。
わがままで、譲る事を知らない勝気なその性格は同時にひどく冷めてもいて。
でも、今ここにいる彼は違う・・・
不二の頬にゆっくりと笑みが広がる。その瞳は細められ、愛しそうに胸の内にいる恋人を見下ろす。
「・・・その勇気をくれる?」
リョーマの髪を優しく梳き、それに唇を落としつつ不二が囁く。
「勇気・・・?」
顔を上げ、自分を見上げてくるリョーマの瞳はあどけなく、そんな彼に淡く笑うと、不二はゆっくりと身体を屈める。
今、自分の前の“君”は僕だけの物で、他の誰の物でもないのなら。
それを信じさせてくれるなら・・・
「・・・先輩・・・」
触れて、すぐに離れていったその唇を追いかけて、リョーマは伸び上がって、不二の唇にそっと口付ける。
そんなリョーマに、今度は不二が口付け返して。
まるで子供の戯れのように、触れては離れ、離れては触れていた唇はゆっくりとその深さを増していって。
・・・いつしか力強く抱き締められ、唇を合わせたまま傍らのベッドにと倒れこんだ不二は折り重なるその身体をぎゅっと抱き締め返した。
その温もりが、重みが嬉しくて・・・切なくて。
「・・・越前・・・」
言葉にできない思いを込めて彼を呼んだその声が甘く掠れた・・・
「あ、あ・・・う!」
ぐ、と熱い楔が体内を満たしていく感覚に不二は身体を仰け反らしつつ、切なげな喘ぎ声を上げた。
自分の中に伝わるその熱に内側から焼かれるような感覚に不二はぎゅっと目を閉じる。
「先輩・・・」
「大丈夫・・・だよ・・・」
心配そうに自分を呼んだその声に応える声が震える。同時に瞳に映る彼が揺れて、歪み、不二は慌てて目を閉じた。
「・・・あ・・・」
・・・閉じた不二の瞳から零れ落ちた雫を見て、リョーマは目を見開く。
「・・・ごめん・・・」
「・・・謝らないで。」
ゆっくりとその瞳を開き、不二はその手を伸ばすと、リョーマの頬に触れる。
「それとももう帰ってこないつもりなの?ここに??」
帰ってきたい、そう言ったくせに、そう言って潤んだ瞳のままで笑う不二にリョーマの胸は詰まる。
「帰ってくるよ・・・絶対・・・」
生まれて初めて心から愛しいと思えた人。そして今、自分の思いのためだけに遠くに行こうとしているこんな自分を真剣に思っていてくれる優しい人。
あんたに相応しい人間になりたい。そうなれる事を証明したい。
あんたとオレを繋いでくれたテニスで。
・・・だから・・・
「っう、う・・・あ・・・っ・・・ああっ!!」
「先輩・・・」
深く、ふかくその身体を求めれば、それに応えるように柔らかく、きつく自分を締め付けて来る動きが伝わってきて、リョーマは目を細める。
自分の腕の中で自分の動きに応え、身を震わす不二はどんな時よりも綺麗で・・・愛しくて。
あんたの中にオレをしっかり刻み付けておきたい。そして自分自身にも。
「好きだ・・・」
「え・・・ちぜ・・・ああっ・・・!」
その目じりから幾粒も零れ落ちる涙を唇で受け止めながら、リョーマはその動きを激しくしていく。
「あ・・・はぁ・・・っ、・・・!!」
あまりの激しさに遠くなりかける意識を持ちこたえようと、不二はリョーマの背中に爪を立てる。
「だ・・・め、も・・・っ!!」
「・・・オレも・・・」
荒く息を弾ませながら応えるその声に、固く閉じていた目を必死に開ければ、まっすぐに自分を見つめているリョーマと目が合う。
「一緒に・・・いこう・・・」
「・・・ん・・・」
もっと満たしてほしい。もっと、もっと。
・・・追いつけない言葉の代わりに、心の代わりに。
満たしてくれるのは君だけ、あなただけ・・・だから。
誰よりも近くに、ここにいてほしい。
「あ!」
「・・・っ!!」
訪れた頂点に体を震わせつつ、お互い、自分を包む愛しい恋人を強くつよくかき抱き合った。
胸の内に同じ思いを抱きながら・・・
ふっと頬を風が撫でる感覚に不二はうっすらと目を開けた。
夜はすっかり明けており、開いた窓から入ってくる風に、上げたままになっていたブラインドが揺れている。
・・・行ったんだ。
自分の隣にいたその姿はもうなく、不二は小さくため息をつき、その空になった個所に手を伸ばす。
「越前・・・」
まだそこに残る温もりを感じとり、不二はゆっくりと身体を移動させると、彼の寝ていた個所にその頬を押し当て、その瞳を閉じる。
昨日、彼は激しく、何度も自分を求め、自分もそれに応えた。
その激しさに疲れきり、鉛のように重くなった体をその手でしっかりと抱き締めて、髪に、頬に、額に唇を押し当てながら、彼は自分が眠りにつくまで何度も何度も囁きかけてくれた。
“好き”
その耳の奥に残っている優しく、甘い声を思い出し、不二は小さく笑う。
もう起きなくてはいけない。
どんどん高くなっていく日の光に目を細めながら、でももう少しこうして彼を感じていたくて、不二はゆっくりとその目を閉じ、小さく呟く。
「好きだよ・・・」
それは自分も同じ思い。何もかもを無にして行き着く場所はそこで。
そして、その一言を信じてこれからの日々を過ごす事のためらいと迷いは消えていた。
自分にしてやれる事は何もないかもしれない。でも彼が自分を必要としてくれるのならここにいよう。彼を思い続けながら。
リョーマを思い、閉じられた不二の瞳からはもう涙は溢れなかった。
ヘッドホンを通して流れてきた曲と音にリョーマはふ・・・と目を細めた。
“まるであんたの声、聞いてるみたいだ”
柔らかく、優しい調べはこのCDを贈ってくれた人を思い出させて。
“越前・・・”
目を閉じれば鮮やかに蘇ってくる。
笑った顔。すました顔。拗ねた顔。甘える顔。そして・・・初めて見た泣き顔。
・・・こんな事を言えばあなたは笑うのだろうけど。
たとえその姿はここにはなくても、いつでもあなたはここに・・・胸の中にいる。
だから、勇気が持てる。前へ進んでいける。
今日はこちらに来て初の公式戦。でも緊張はなかった。
“行ってくるよ”
胸の内に浮かぶ恋人にそう語りかけ、リョーマは顔を引き締め、顔を上げる。
まっすぐ前を見据えるその瞳には、一点の曇りもなかった。